last updated 1997/05/31
第16話(全130話)
川の流れの中で(2/3)
「そんな。嘘だよね。妖精なんて、いるわけないよ」
マリイアの童話に包まれて育ち、童話の世界にこそ、本当の暖かさを感じるピートにとって
も、じっさいに妖精の姿を目の当たりにするのは、やっぱりショッキングなことだし、信じら
れないことだった。
妖精は確かにいる。
誰かに聞かれたら、ピートは自信を持ってそう断言する子供だ。だからこそ学校でも「変わ
り者」扱いされているのだ。けれどそう応えるピートの脳裏にあるのは、深い森に囲まれた、
誰も人間が足を踏み入れたことのない泉の辺にそっと息づく、はかない朧な光を弱々しく放つ
妖精の姿だし、それがつまりは木々や草花の生命力が、たまたま外へと流れ出てひとつの光と
いう形を持ったもの、というイメージだ。
童話の世界からイメージできる妖精というのは、そういうものだった。
誰かの視線を感じれば、それだけで途端に露のように消えてしまう、そういうものだった。
なのに。
いま目にしているこの光景はどうだろう。
人目に触れずにひっそりと、なんて感じじゃない。
何百という大群で、それは大空を占拠し、開けっぴろげな自由さで、のびのびと舞い踊り、
宙を闊歩している。ひそやかさもはかなさもそこにはなく、あるのはたとえば渡り鳥の大群に
あるような生命のエネルギーの迸りだ。
それはピートの思い描く妖精とはかけ離れていた。
それはファンタジーの中にしか生きられない弱々しい存在ではなかった。
体を持ち、羽根を持ち、そして命を宿す、それは確かな生物だった。
妖精たちはまず一、二匹がピートの体へと舞い降り、顔や胸の上でトントンと足踏みして、
ちょっと様子を見たかと思うと、甲高い声で「ケーン!」と鳴いた。それを合図にしていっせ
いに何百もの群れがピートを覆いつくし、すっぽりとその体を包んでしまった。ピートは動け
なかった。あまりのことに茫然となってしまっていて、動こうとすら思えなかった。体が竦む
、とはこういうことだ。
妖精たちは互いに何やら喋り合い、声を上げて笑い、そしてヒソヒソと秘密の会話を交わし
ている。キュウキュウと生まれたてのネズミみたいな声だった。ボーイ・ソプラノに近い声質
で、この大群がコーラス隊でも編成したら、きっとそれは美しい天使の歌声のように人の心に
染みるだろう。ピートはそう思った。そういうことを思っている自分に驚いた。
じっさい妖精を目の当たりにして、思うことがコーラス隊を指揮してみたい、なんてことな
んだから「ぼくって、どうかしてる」
身動きできないまま妖精たちに覆いかぶさられていると、突然、妖精たちがいっせいにフワ
ッと舞い上がった。自分の体も一緒に舞い上がりそうな気がした。しかしそれは錯覚で、ピー
トの体は川岸に大の字になってひっくり返ったままだ。妖精たちはそんなピートにはもう関心
も興味もなくしてしまった様子で、大群で空の高みへとまた上昇して行き、そして風に乗るよ
うにしてピートの視界の外へと移動して行った。
妖精たちの動きを追うようにして首を巡らし、上体を起こしてみたピートは、そこでまた
「え」
と声を上げてしまう。
川と空と妖精しか見ていなかったピートの目に、はじめてそのほかの風景が飛び込んできた
。それは彼の知るどんな風景とも違っていた。
鉄橋の架かっていた川をどんなに流されてきたとしても、こんな風景の中へ辿り着くはずは
なかった。
紫色の草に覆われた大草原。
その向こうには青や水色に紅葉・・彩葉・・した森。
そして森の後ろに聳える完全な円錐形の山。
何だか幼い子供が好き勝手に描いた、子供だけに理解できる風景画の中に迷い込んでしまっ
たみたいだ。
ここはどこだ?
ピートははじめてその問いを発した。
川の中で意識を取り戻した時すぐに、発していいはずの質問だった。
もっと注意して周囲に目を巡らせていたなら、すぐにここが自分の知っている場所ではな
いことがわかったはずだ。
なのに、そうしなかった。そうする必要があるとも思わなかった。
自分はただ橋脚から落ち、川に助けられたんだと思っていた。それだけでもじゅうぶんに「
驚くべきこと」だった。けれどじっさいはそうではなかったらしい。彼の身に起こったのは単
に「驚くべきこと」ではなく、それを越えた「驚異の出来事」だったらしい。
ピートの落ちた川は、あのヒナツバメの巣があった、あの鉄橋が架かっていた、あの川では
なかった。あの橋から落ちたのは確かだけど、ピートが落ちたのはその真下にあったあの川で
はなく、どこか別の世界にある、この、川だった。
そうとわかっても、ピートにはそれがどういうことなのかは理解できない。ピートはただ茫
然となったまま、呆けた顔で景色をみつめていた。目をこすり、これが夢なのかどうか確認し
てみようと思い立つ。それぐらいはしなければならないと自分に命じた。ピートは手をゆっく
りと目の前へと持ってきた。そして。
ピートは再度、悲鳴を上げた。
目の前に現れたのは彼の手ではなかった。
人間の手ですらなかった。
オフホワイトの色に塗られた三本指のパワーシャベルの小型版みたいな機械。
それに続くゴム製の蛇腹状になったアーム。
恐る恐る、ピートは自分の体を見下ろしてみる。
ずん胴のドラム缶のような体が見えた。表面にいろいろな計器やランプやスイッチが並んで
いる。その先には短くて不恰好な足。やはりゴムの蛇腹が膝や足首の代わりをつとめている、
そんな足。
「何だこれ」
ピートは声を上げる。
「これっていったい何なの?」
叫んだピートの、その声もよく聞けばピート自身の声ではなく、どこか電気的な、およそ子
供の声とも思えない代物だった。
体を見て、声を聞いて、ピートは自分が自分ではなくなっていることにようやく思い至る。
幸運を信じなさい。
マリイアの言葉が甦った。
けれどこれは「幸運」と呼べるようなことなんだろうか? それとも「とんでもなく不運な
事態」と呼ぶべきことなんだろうか? わからない。自分に何が起こったのかもわからないの
に、幸運なのか不運なのかなんてわかるわけはなかった。いや、何が起こったのか、なんて過
去形にすることすら、いまはできない。それはいまも起こっているし、起こり続けているのだ
から。
(つづく)
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